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やなぎみわ 『日輪の翼』との邂逅

 やなぎみわ さんとの出会いは、何か運命を匂わせるモノに満ちていた。

 傑出した名俳優、原田芳雄さんにお会いしたのは、確か2009年、の熊野新宮の、お燈まつりでのことだった。私が心より敬愛する小説家、中上健次。彼が愛したこのお燈まつりに是非一度は参加しようと、その日は私は白装束に身をつつみ、白いもののみを口にし、時に暴力が溢れ、血の流れるような、炎の祭りの場へと歩み出たのだった。熊野そのものが生み出したともいえる、この希有な作家との深い交友から、原田氏は毎年、中上健次が没してからも、お燈まつりに参加し続けてきた。思えばそれは、2008年に、すでにこの世を去っていた中上健次そして松田優作氏とも同じくして、彼がガンを患った後の、初めてのお燈まつりだったのだろう。特別な空気のただよう街の中を、白装束に身を包んだ我々参加者の間をぬい、ときに挨拶を交わしながら、ご家族とともに、ゆっくりと、歩いておられたのを思い出す。

 その時熊野で、偶然にも3度、お会いしたのだった。一度目は、祭りの最中に。そして2度目は、打ち上げのお店で、なんと突然、同じ部屋に入ってこられた。そして三度目は、翌日の新宮から離れた那智の滝にて。音楽を聴き、旅の余韻に浸りながら、帰りのバスを待ちつつ目を閉じていた私の前に、大きな靴の音が響いた。目を開けると目の前に、なんと原田芳雄さんがいたのだだった。呆然とする私の前を、悠然と歩き去っていくその後ろ姿。男の色気そのもののような、深い雰囲気を漂わせた、その存在感と、背中から放たれる彼特有の気配は、今もこの脳裏に焼き付いている。

 その原田氏が、中上健次原作の『日輪の翼』を映画化しようとしていたのを知っていた。何度も脚本をやり取りした後に仕上げようと、中上健次が第一稿を、原田氏に手渡した後、中上は、46才の若さで亡くなられた。その後脚本を手に、映画化を思い続けていた原田芳雄氏も、完成の日をみることなく、2011年に、帰らぬ人となったのだった。

 経緯を知っていた私は、映画『日輪の翼』は、完全に消えて、無くなってしまったのだと思わざるを得なかった。作家中上健次自体を知る人も、それほど多くなくなってきたように思う。人生を変えてしまうほどの影響を受けたこの作家の、存在が薄れてきていることに、私は寂しさを感じずにいられなかった。  そうした日々に、突如として、やなぎ みわ さんに遭遇したのだった。それも『日輪の翼』舞台化という、壮大なプロジェクトとともに。

 初めての打ち合わせの時に、彼女のアトリエへ訪れ、深く中上と、熊野についての会話を交わした後、彼女が目の前に持ち出したのは、中上健次が、原田芳雄氏に手渡した、映画『日輪の翼』の脚本、第一稿。信じられない思いとともに、ページをめくりながら、上気した頬が、熱をおびて来るのを感じざるを得なかった。

何か運命のようなものが、私を迎えに来たような、大げさかもしれないが、そんな感じがしたのだった。

様々な思いは深まり、渦のように沸き起こり続ける。そのすべてを、5月3日に、美しくも輝かしい舞台上で、出しつくしてみたいと思う。


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